ブックタイトル佐藤栄作 受賞論文集

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概要

佐藤栄作 受賞論文集

第27回優秀賞イレベルの当事者による会議といったエチオピアの民主化を支援する地道な活動においても、カーターセンターが活躍した。カーターは1994年に北朝鮮とハイチにおいて当時のクリントン大統領の特使として和平調停に乗り出し、北朝鮮では核危機を鎮め、ハイチにおいてはクーデター政権から正統政府への権力移譲を行わせた。この二つの事例そのものは大統領特使という職責上、トラック1外交の範疇に入るものかもしれないが、ハイチでカーターセンターは1991年の選挙支援に携わっており、その時に接触していたセドラ将軍がクーデター政権のトップであったことから、カーターは水面下で調停の可能性を模索していた。当時、国連安保理がクーデター政権に武力行使容認決議を認めていたにも関わらず、交渉による和平調停をクリントンに打診したのは、カーター本人だと言われている。そしてハイチは結局、武力行使を実施することなく、平和裏に政党政府への復権が行われた。カーターセンターが選挙支援以降も組織的に、継続してハイチと関係を維持していたことが、この和平調停の背景にあったと言えよう。また、アハティサーリ元フィンランド大統領による「CMI(Crisis ManagementInitiative、危機管理イニシャティブ)」も和平調停を中心に、精力的に活動を続けてきた国際NGOである。アハティサーリが和平調停に携わるきっかけとなったのは、1978年にワルトハイム国連事務総長からナミビア独立問題の事務総長特別代表に選ばれた時であった。ナミビアは第一次世界大戦後、国際連盟から信託委任統治を任された南アフリカによって自国領に強制編入されてしまっていた。国連総会は1966年に南アフリカへの信託統治の終結を決議し、それを機にナミビア独立運動が活発化した。国連安保理は78年にナミビア独立への手続きを定めた決議を採択し、それ以降、南アフリカと国連との対立が強まった。交渉は難航したが、10年後の88年、北隣のアンゴラからのキューバ軍撤退によって交渉が急展開し、90年に関係国間の調停がまとまりナミビアは独立を手にした。ナミビアから帰国したアハティサーリは大統領戦に出馬し、94年から2000年までフィンランド大統領に就任し、EU加盟などに携わった。883