ブックタイトル佐藤栄作 受賞論文集

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概要

佐藤栄作 受賞論文集

第21回最優秀賞監視することだけを任務とするのではなくて、平和再建機能をも伴う活動であったのである5。UNTACは、1992年2月に安保理決議745に基づき設置されたが、その際に活動の指針を提供したのが、「カンボジア紛争の包括的な政治的解決に関する協定(パリ協定)」だ。それに基づき、UNTACは武装解除、兵力の動員解除、警察組織の監督、行政組織の管理、人権状況の向上、難民帰還、選挙の実施といった作業を行い、国家の建て直しを図った。UNTACは、伝統的な平和維持活動とは異なり、紛争の最終的な解決のための交渉が完了したのちに派遣・設置され、通常のPKOの軍事機能の実施に加えて、既存の政府の様々な機関を監督し、選挙を組織し、警察を監督し、人権を促進し、難民を帰還させて国の復興を開始することを任務とするという特殊性をもっていたのである6。とりわけ、総選挙の実施に関しては、現地政府による選挙を監視する従来型のものではなく、選挙の組織・実施それ自体をもUNTACが担ったという点で画期的なものであった7。しかし、UNTACが選挙実施のような強大な権限を握るようになると、従来型のPKOに求められた基本原則、とりわけ中立・公平原則を維持することがしばしば困難となる局面に遭遇した。なぜなら、従来ならば国家主権に属すると思われていた事柄にまで介入する強大で複雑な権限を国連が一国内で行使することになると、国連に立法機関ないしは司法機関的な役割が要請されることになる8。そのことで、紛争当事者の一部を処罰したり、敵にまわしたりする必要性も生まれうる。そのような場面では、本来PKOが持つべき調停者としての客観性や公正さの維持が難しくなってしまうのである。事実、UNTACの中立性は、以下で見るように随所に揺らいでいた。ヘイニンジャーは、「明石氏はカンボジア各派に対するアプローチに関して、中立ではなかったというべきだろう。なぜなら、ある者は彼がプノンペン政権に肩入れしていると考え、その一方である者は、UNTACがク6西原、前掲書p.437それまでP.KOが行ってきたのは、ナミビア、ニカラグア、ハイチなどいずれも選挙監視活動であった。1989年の国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)は、ナミビアの独立への移行に関する国連の計画の実施を監視するために設置されたものである。UNTAGは、UNTAGの設置を決定した安保理決議435(1978)の実施を認める3カ国協定(1988年12月キューバ、アンゴラ、南アフリカ)が、P.KOの派遣(1989年4月)に先立って合意・署名されていたという点でパリ協定を前提としたUNTACに類似するP.KOだといえるが、それでも選挙を組織・実施したのは、同地域の行政権を違法に握ってきた南アフリカが任命した、在ナミビア行政長官であった。そしてUNTAGの任務はあくまでその選挙を監視し、自由で公正な選挙を確保することに過ぎなかった。また1991年の国連ニカラグア選挙監視団(ONUVEN)も、1990年の国連ハイチ選挙監視団(ONUVEH)も、いずれも主権国家での大統領選挙であって、その実施は当該国政府が担ったのである。もっとも、1991年からの国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)は、1991年に西サハラの帰属をめぐって行われるはずであった住民投票を、MINURSOが組織・実施したものであったが、西サハラは非自治地域であって、一応は主権国家といえるカンボジアとは事情が異なる(なお、ナミビアもP.KO当時は非自治地域であった)。参照;福田菊『国連とP.KO戦わざる軍隊の全て』(東信堂1992)pp.183-184、西原、前掲書p.438明石康『忍耐と希望~カンボジアの560日~』(朝日新聞社1996)p.147349