ブックタイトル佐藤栄作 受賞論文集

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概要

佐藤栄作 受賞論文集

の対立抗争や宗派の対立、周辺諸国に逃れた難民の問題など解決に時間と国際的協力支援を必要とする問題が山積している。アメリカは大統領選挙を控えているが、アメリカが掲げる人道主義の下に国連中心の復興支援にギアチェンジすることが、アメリカの国益とイラクの民心の安定と治安維持にかなうものである。理を掲げるフランスやドイツ、ロシアなどの主要国も人道どころではなく、アメリカ主導の戦後復興事業にどう切り込んでゆくか、利権獲得に躍起になっている。苦しむイラク人は忘れ去られ、人道支援という大義を掲げる先進諸国が戦後復興事業の利権獲得に血道をあげている今こそ、国連だけができる真の人道の立場から、復興事業支援業務の仕切り役を務めるために声を上げなければならない。国連の使命として。五、消えぬ怨念の民族抗争バルカン地方では、1804年の農民を含む国家樹立をめざす民族蜂起があり、以来今日まで激しい民族間抗争を繰り広げている。1830年にセルビア公国として自治を認められ、第一次バルカン戦争の勝利を経てセルビアが南スラブの解放のリーダーとなった。第一次大戦でセルビア国王の統治する統一国家が創設された。その後第二次大戦がはじまり、ユーゴは枢軸軍に分割統治されるところとなり、クロアチアだけが独立を承認された。クロアチア政権はヒットラーにならって民族浄化策をとり、セルビア人を大量虐殺して抑圧したために、チトーを最高司令官とするパルチザン軍に多くのセルビア人が参加し、枢軸軍は敗北して1946年にチトーのもとで第二のユーゴを発足させた。第二のユーゴは、六つの共和国と二つの自治州からなる連邦国家となった。68年と71年にコソヴォとクロアチアで民族の自治を要求する大衆運動が発生した。80年チトーの死後、統合の絆を失ったユーゴは連邦制維持が困難となってきた。民族自決の高まるなかで1991年にはソ連が、1992年にはユーゴとチェコスロバキアで東欧社会主義連邦体制が解体した。連邦制維持にこだわるセルビア人は各地で抗争を繰り返した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦では、ムスリムによるセルビア女性に対する332