ブックタイトル佐藤栄作 受賞論文集

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概要

佐藤栄作 受賞論文集

第19回奨励賞かりに、また国家に主権があるばかりに戦争が起こるのだと考えられるようになってしまった。これは何も(近代)国家に限った話ではない。時代のヘゲモニーを握る者は常にこれと同じ運命をたどってきた。ポリス(都市国家)も、古代帝国も、さらに教会までもが自らの権威・権力によって戦争を引き起こし、それ故に歴史の表舞台から退場させられていった。考えてみれば、ポリスも、帝国も、教会も、そして国民国家も、尽く平和への真摯な願いからスタートしているのである。それらはいずれも人類の偉大な発明品であって、最初はそれなりに機能して平和の実現と維持に寄与していた。ところが、作った方も作られた方も、次第にその当時の記憶を薄れさせていく。権威と権力が集中すれば、聖人君子と言えども横暴になり傲慢になる。最高善・絶対善と崇められれば、敗北を認めることはおろか僅かな妥協すら困難になってしまう。そして善が複数有ればいつかは衝突するしかない……。世界の歴史は今日までこれを繰り返し続けてきた。人類が知恵を搾って発明した平和へのアイテムが、いつの間にか逆に人類を戦争や紛争へと導くアイテムにすり替えられてしまう。私達はそろそろこのカラクリに気が付いていい頃である。「過ちは繰り返しません」――(反発を覚悟で)敢えて言えば、これほど虚しい言葉はない。「過ち」はもう何度も繰り返されてきたのである。その歴史をすっかり忘れ去り、また何故「過ち」が繰り返されてきたのかを考えようとしなければ、何を語ろうとも無意味である。私達はむしろ謙虚に、「再び過ちを繰り返しそうです」と自覚すべきである。もとより私は歴史学や政治学の学者でも専門家でもない。世界史の知識と言っても高校生レベルである。それでも、愛と平和と命の実現を誰よりも願って生まれたはずの敬虔なキリスト者達が、千年後には自ら進んで異教徒殺戮の大遠征に加わった程度のことは知っている。その背景にさまざまな要因があったことは承知していても、教会の名の下で戦争253