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概要

satoh

全てがフレーレの言う銀行型教育だと断言することはできないが、それがもたらすものは要するに量としての知識ではなかったか。つまり、いくつの外国語が話せるとか、 1分間に何ワードをタイプライターで打てるか、といったようなことであるoこれを私は「tohaveの教育」と捉える.これに対し、フレーレの課題提起教育、あるいは開発教育が目指すところは、言わば「tobeの教育」と呼べるだろう。 "tohave"の主体はあくまでそ■●●●●■■●●●■の所有者自身に違いないから、その人がいかにあるかということは、その人がどれだけ持●●●●●っているか、ということより重要であろう。つまり、「tobeの教育」は「tohaveの教育」に先行するものなのである。私は開発教育はおそらくこの前者をその中核にすえるものであろうと理解する。その故に、R.バーンズは前述の彼の定義の中で、開発教育を千■●●●「開発のための教育の内部活動的な過程である」と指摘したのだろう0次に、では以上論述してきたような意識化としての開発教育を実際にどのように具休化し、運用したら良いのかを、第三章においてさらに論ずることにしたい。第三章、開発教育のプログラム化開発教育の根本的な要素が意識化であることはすでに前章で述べたが、往々にして人々の意識は自らの偏狭な「意識の水平線」の内側に閉じ込められているものである。それはすでに社会に深く根をおろしている既存の秩序等によって、なかなか動かし難いものとなっているのが通常である。また、人々の意識のレベルもまちまちであり、それは各人のおかれている様々な状況によりかなり異なってくる。しかし、このような開発教育にとっての困難な状況は、むしろ現実であり、このような現実からこそ出発しなければならないのである。意識のレベルの違いについても、むしろそのレベルの違いを素直に示し合うことによって互いの意識のレベルに影響を与え合うことができるのである。これにより、そのような限界的状況におかれていたことを認識するのを妨げていたものが何だったかを知ることに90