ブックタイトル佐藤栄作 受賞論文集

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概要

佐藤栄作 受賞論文集

朝鮮の核開発の意図はいかなるものかという視点が欠かせない。したがって本章では、主なアクター、とりわけ北朝鮮とアメリカの思惑を分析すると共に、北朝鮮に対するアプローチが難航している原因を探りたい。(1)北朝鮮核問題の歴史的概要北朝鮮の核疑惑は冷戦終結以前に遡る6。ソ連は北朝鮮に原子炉の技術協力を行ったが、その過程で北朝鮮は核技術を発展させ、ソ連や中国に対しても秘密裏に核兵器製造に取り組んできたと考えられている。北朝鮮はIAEAに加盟し、またソ連が北朝鮮に原子炉製造の技術援助をする際の条約上の義務であるところ、1985年にNPT加盟した。北朝鮮はIAEA保障措置協定の締結を遅らせ、アメリカの先制核不使用が保証され、在韓米軍の核兵器が撤去されない限り、保障措置協定締結、査察受け入れは行わないとの方針を述べた。だが、アメリカが戦略核兵器の一方的撤去を行ったことで南北朝鮮の対話が進んだ結果、1992年1月に南北非核化共同宣言が発出され、北朝鮮は保障措置協定を締結した。しかし、IAEAが寧辺の未申告施設の査察受け入れを迫ったところ、北朝鮮の態度は硬化し、1993年3月にNPTを脱退するとの声明を発表した。この時点で、北朝鮮に対してIAEAやNPTという枠組みで問題を解決できる可能性は限りなく低くなったといってよい。残されたアプローチは、北朝鮮に影響力を振るいうるアメリカや中国からの説得や実力行使しかなかった。その後の査察は、北朝鮮の妨害行動や燃料棒取り出しなどで不振に終わり、アメリカは本格的に北朝鮮への経済制裁、続く限定的空爆案を検討しだした。ここでカーター元大統7領が訪朝し、それが転機となって米朝の交渉が進んだところ、1994年の米朝枠組み合意ができた。この後も、ミサイル問題や金倉里疑惑8などが浮上し、北朝鮮の査察受け入れや使用済み核燃料棒をめぐって米朝枠組み合意の履行は難航していた。しかし、北朝鮮の査察受け入れの期限にいまだ達していなかったこともあって、危機的な雰囲気ではなかった。一方、アメリカ国内では、共和党の一部を中心に枠組み合意撤廃の動きや、北朝鮮早4466 北朝鮮の核兵器開発は1979年ごろ寧辺において本格的に始動した。イ・ヨンジュン(2004),91-96頁。アメリカが衛星等を通じ北朝鮮の核開発を探知したのは1982年といわれる。オーバードーファー(1998)7 米朝枠組み合意の実質は、北朝鮮の黒鉛炉凍結と再処理施設封印、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)の設立と代替エネルギーとしての重油提供、軽水炉建設、その軽水炉の重要部品を引き渡す前の北朝鮮側のIAEA保障措置協定義務全面履行、使用済み核燃料棒を第三国に搬出、核関連施設の解体などの義務である。南北非核化共同宣言を遵守することも合意内容に入っているので、高濃縮ウラン開発も禁じられている。8 1999年、金倉里に地下核施設があるとの疑惑が浮上し米国代表団の査察を受けた。