ブックタイトル佐藤栄作 受賞論文集

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概要

佐藤栄作 受賞論文集

レブレニツァ)・1994年4月以降のルワンダにおける挫折も新たな教訓となった。両事例では、人道危機の際にUNPROFORやUNAMIRといったPKOが現地に駐留していたにもかかわらず、マンデートや装備の不足から人道危機の発生や深刻化を防ぐことができなかった。そして、PKOのマンデートや装備の不足という問題は、国連加盟国の人道状況改善への意思の不足という問題であった。時期を逸したルワンダ介入の際に、多国籍軍を主導するフランスに対して、そのような資源があるのならばUNAMIRを強化するべきだという指摘が安保理においてニュージーランドなどからなされた18ことは、加盟国の能力ではなく意思の問題であったことを何より物語る。軍事介入において第一に期待されるアメリカは、自国の死傷兵をメディアにさらされた(1993年10月)ソマリア・シンドロームから逃れられず、人道危機進行中の1994年5月に大統領決定指令(PDD)25号を発令し、選択的なPKOの活用を主張した。また、ルワンダへの関与を避けるため、ジェノサイドという言葉の使用が避けられ続けた。アメリカにとってのソマリアは、不関与・不介入の教訓となったのである。もっとも、フランスとアメリカばかりではない。人道危機の進行中、偶然にもルワンダ政府は安保理の非常任理事国であった。安保理においては、常任理事国間で重要な情報が共有される傾向があるとはいえ、議席を持つ以上、ジェノサイドの当事者であるルワンダ政府が安保理の議論の流れをかなりの程度正確に把握していたことは想像に難くない。しかし、その資格を問題にする国は存在しなかった19。一方、ボスニアでは、UNPROFORの活動に国連憲章七章が援用され、任務が増加していくにつれ、マンデートが不明確になっていった20。ルワンダに比べれば関与自体に消極的な国は少なかったが、関与の程度をめぐって積極派・消極派の議論が続き、玉虫色の安保理決議と、それに基づくPKOのマンデートが残されたのである。しかし、国連は、これらの教訓も着実に活かした。ソマリアにおける平和強制型PKOの挫折やボスニアにおけるPKOのマンデートの混乱を受け、同意原則・公平原則・自衛原則といった伝統的なPKOの原則が再び堅持されるようになった21。他方でルワンダの教訓も活かされた。伝統的PKOでは独自の情報収集ができないため人権侵害の予防にも102618UNDocument,S/PV.3392(22June,1994)を参照。19Power(2002)p.369,Dallaire(2003)p.195を参照。20UNDocument,A/54/549(15November,1999)を参照。21UNDocument,A/50/60-S/1995/1(25January,1995),A/55/305-S/2000-809(21August,2000)を参照。