ブックタイトル佐藤栄作論文集9~16

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概要

佐藤栄作論文集9~16

第10回奨励賞ル共和国を設立した。追放されたシアヌークは旧政権内での権力争いに破れて反政府地下活動に入っていた左派のクメール・ルージュと組んでロン・ノル政権と対決した。75年4月にアメリカ軍がカンボジアの首都、プノンペンから撤退を開始すると同時にロン・ノル政権は崩壊、1年後には「民主カンボジア」が成立する。クメール・ルージュ内ではポル・ポトを指導者とする文化大革命の強い影響を受けた親中国派が権力を掌握し、プノンペン陥落後シアヌークを幽閉し、原始共産主義制への移行に着手した。農業の集団化、都市文明の否定を柱とするポル・ポトの政策は市場と通貨を廃止するまでに至り、それに反対する多くの穏健派の幹部と知識人などの一般人は虐殺され、強制労働に駆り出された国民は重労働と食料、薬品の不足のため次々と死亡した。ポル・ポト政権時代の死者は百万人から三百万人といわれ、現在一般市民がポル・ポト派に憎悪を抱く原因になっている。79年に粛正されずにいた親ベトナム勢力がベトナム軍とソ連に支援されてポル・ポト政権を打倒し、カンボジア人民共和国が成立してからもプノンペン政府軍対ポル・ポト、シアヌーク、そして旧ロン・ノル軍を母体とするソン・サン派の三派連合との内戦が続いた。87年に始まった政治的解決への交渉が加速したのは国際社会の三派連合への対応の変化がある。三派はカンボジアの実際の政府でなくなってからも長く国連議席を保有していたが、アメリカ政府は彼らを国連代表権問題で支持しないと言明し、ポル・ポト派を援助してきた中国も天安門事件に始まった孤立化に歯止めをかけるために姿勢を変化させた。プノンペン政府を軍事的に支援し続けたベトナム軍が撤退し、ベトナムを通じて援助を続けてきたソ連の崩壊も大きい。91年10月のパリ協定で各勢力は連合政府の設立に合意し、安全保障理事会にそのプロセスの監視機構の設置を要請した。二万二千人という国連PKOの歴史の中で最大の人員を有する国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)は翌年の2月に発足し、カンボジアは実質的にその主権を国連に委ねたのである。自衛隊が工兵隊としてPKOに初参加し、日本人の明石康が事務総長特別代表を勤め、日本人が最大の関心を持ったカンボジアのPKOは国連による平和活動の歴史の中で最も193