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概要

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ソ連は、八七年の第四二回国連総会においては、通常予算分担金及び国連の平和維持活動(PRO)経費の不払い分を支払う旨を表明した。のみならず同時期、ソ連はPROの広範な活用を強調するに至った(注2).八八年四月には、国連の仲介によるアフガニスタン問題間接交渉に関する合意文書に署名、ソ連軍撤退を監視するための国連監視グループの現地派遣にも同意した。さらにイラン・イラク和平交渉開始に協力したのをはじめ、アンゴラからのキューバ軍の撤退問題や、西サノ、ラ、カンボジアの地域紛争解決でも国連の役割を支持するようになった(注3)0一方、米国の国連政策も徐々に転換していったのである。初期のレーガン政権は反国連とも呼べる立場をとっていた。この時期米国は社会主義国、第三世界の国連での主張に強く反発、八四年一二月をもってユネスコから脱退した。初期レーガン政権で大きな影響力を行使した-リテージ財団の研究員は、「必要とあれば、われわれはILOからもWHOからもUNDPからも、一つ一つ手を引いてゆく」とすら語っていたのである(注4)。反ソ連政策遂行のためにこそ、こうした国連離れの態度を示していた米国が、八〇年末から対ソ協調、国連重視の姿勢に徐々に転換したのである。一九八八年には、リチャード・ガードナーらが、国連を無視したレーガン政権の単独軍事行動を非難し、国連の多角的国際協力を通Lて米国の外交目標は達成されるべきだと主張した(注5)。米国内で公然たるレーガンの国連政策批判が展開されたのである。こうして米国は、昨年(九〇年)一〇月には停止していた国連分担金の支払いを五年ぶり忙再開している。米ソ両国の国連重視-の転換と、米ソデタントの進展の結果、国連での米ソ協調がはっきりした形で現れてきたのであるO八九年九月米ソ外相が会談し、国連機能の強化に関して共同して努力することに合意、八九年--月の第四四回国連総会において、初の米ソ共同提案「国連憲章に基づいた国際の平和、安全保障、協力におけるあらゆる面での強化」が全会一致で採択(総会決議四四/二一)されることになったのである。874(注2)天羽民雄『多国間外交論』(PMC出版、一九九〇年)、一三六~一三九百。(江3)緒方貞子「国連を蘇生させたゴルバチョフ」『中央公論』一九八九年二月号、一五一-一五二頁O(往4)水野隆徳『第四の権力』(アイペック、一九八八年)、一〇八責。(注5)RkhaTdN.GaTdner,HTheCaseforPracticallnternationa)isTn,"ForeignA fairs,Spring1988.