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概要

satoh

第5回佳作ながら下男がそうした理由を考えるまでには至らなかった。私はその下男が主人の命令にあまりにも忠実だったからだと思うのだが、もしそうだとすれば、この忠実な下男をどうして軽蔑できようか。自助の精神が強い日本人から見れば、容易に他者の助けを求める人々の態度を軽蔑したくなるのも無理はない。だが、インドネシア人の"他力本願"を否定的見地からではなく、逆に肯定的見地から見たら何が見えてくるだろうか。インドネシア人の90%に当たる人々の宗教であるイスラム教の教えによれば、信者は「イスラムの五基」と呼ばれる信仰の告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼を行うことが義務である。これらの義務の中で「イスラーム教徒の慈善、博愛の観念と深い関係をもつもので、イスラームの-特徴ともいうべき友愛精神の具体化とも見られ」(蒲生、昭和33年、133頁)る喜捨の、持てる者が持たぎる者を援助する精神と金品を無心する行為に強い関係があることに気付く。私はジョクジャカルタ市内の調査で町内の人たちが行っていたフイトラーと呼ばれている救貧事業を見たことがある。それは断食月の終わりの日に町内で多少とも余裕のある者が一人当たり5キロから15キロ程の米を提供し、貧しい者が一人当たり1キロの米を受け取るというもので、政府から支給された80キロの米に町内の19人が提供した分を足した合計225キロの米を222人の人に分配していた。フイトラーは組織的な貧者-の施しであるが、個人的に行われる施しも多い。たとえば商店街や住宅地を巡り歩いている乞食に人々は気軽にまた当然のように小銭を与える。この救貧行為の根底にある精神を背景として考えると、金品を要求されることは迷惑どころか、むしろ感謝すべきことなのだということになる。なぜなら求めに応じて金品を差し出せば彼は神に喜ばれる善行を積んだことになるし、持てる者としてまた慈善行為をした者として彼は社会的な尊敬も受けるからだ。困窮する者が(自助精神を尊ぶ日本人の表現を借りれば)H恥を忍んで'金品を要求する行為の裏にこのような深い精神があると判れば軽蔑の念は薄れるのではなかろうか。それどころか.自助精神が強いばかりに寄付行為が苦手で困窮者に冷淡な民族だと気付いて顔を赤らめる日本人もいるかもしれない。占11