ブックタイトルsatoh

ページ
533/1034

このページは satoh の電子ブックに掲載されている533ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

satoh

第5回優秀賞子供たちは、年齢に応じて、地元川口市の公立小・中学校-の編入を認められた。すなわち、デビーは、中学1年、ソマンターは小学6年、ソヤー小5、ワンディ小4という具合である。ティダーは保育園に通い始めた。だが、彼女たち姉弟は、カンボジアにおいて初等教育を全く受けていない。中国系カンボジア人である父は、かつては貿易商を営んでいたから比較的裕福であった。だが一転、ポル・ポトの原始共産主義政策により、子供たちの就学機会を奪われたのみならず、財産を没収され、一家は、プノンペンから追放された。既に10歳を超えていたデビーは、家族と引き離され、強制労働に就くべく別のコミューンに組み入れられた。満足な食事も与えられず、抵抗する者は、片っぽLから虐殺された。常に、ポル・ポト軍兵士が見張っており、自由はない。インテリ粛清政策によって、知人が、そして隣人がいつの間にか姿を消した。強制連行され、おそらくは殺されたであろう。彼女の父は、いよいよ自分の穴(自分が殺された後、埋められる穴)を掘る番が近づ1)いた時、逃亡を決意した。目前に迫った殺りくの予感が、ぎりぎりの決断を下させた。2昼夜にわたる逃避行の末、一家は、運よく国境を越えることに成功した。子供たちは、軽トラックの荷台の米袋の中で、じっと身を潜めながら2日間を過ごしたという。「だから、今、こうして日本で生きていられる私は、幸せだ」と、デビーは、拙い日本語ながらも克明に、そして懸命に自分の体験を私に聞かせた。目の前にいるあどけない少女が、死と隣り合わせの極限状況-しかも、彼女たちの場合それは人為的につくられたものである一において、想像を絶するような体験を重ねてきたこと、そして、それが昔語りではなく、私たちが生きている、まさに同時代の出来事であることに大きな衝撃を受けた。彼女に、学校での授業を補う意味で、数学や英語、社会といった教科を教えているが、実は、私の方が、彼女からはるかに多くのことを学び、そして考えさせられている。彼女の難民体験は、結果として、クメール文化のみならず様々な文化との接触、そしてその吸収を可能にした。まだ来日後4年に満たないが、デビーの日本-の順応ぶりはすば注1)しばしば,自分が埋められる穴を自分で掘らされたあと,撲殺され,投げこまれるといったことが行われた。これについては,井川一久編,『このインドシナ』連合出版,1979,23ページにも同様の記述がある。 531